自分の目を疑った。次に耳を。体感覚を。疑うものが増えていき、世界が歪み、無になる。故に、テレビ画面に映る自分の顔や会社の外観、キャスターの声、言葉も、何もかもが遠くの世界の出来事のように感じられた。

 それが現実であるとわかると、急に瞬きが激しくなった。どうやら瞼を広げたままでいたらしい。さほど長い時間ではないが、何時間も書類などと向き合っていたような錯覚を得た。くらくらする。寒くもないのに膝が震えた。

 キース・マイヤーズは、しかし椅子に腰を下ろさなかった。一度座ってしまったら、二度と立ち上がれない気がしたからだ。

「――アンタレス・リアルエステートは、会社ぐるみでK議員の不正献金に関与していたとされています。当番組では、元社員を名乗る男性の独白を得ることができました――」

 続けて、かつて自分の部下だった男の声が流れ始めた。その声は間違いなく、キースの企業、株式会社アンタレス・リアルエステートの不正を吐露していた。

「あの裏切り者が……っ」

 噛み締めた歯列から押し出すようにキースはつぶやいた。自社の名前が、メディアに扱われる。決して珍しいことはでない。数年前上場企業となり、野心あふれる若者たちがこぞって憧れる不動産デベロッパーとなった。インタビューも受けたことがある。若くして成功を掴んだ社長として、誰もが恭しく彼を扱った。

 ところが、男の独白を聞いた今、画面の女は何の尊敬も抱いていない。何人もの人間を巻き込んで自爆するようなテロリストや、快楽のために子供に手をかける殺人者などと何も変わらない俎上に、キースをのせている。

 それは、彼女たちキャスターには決して珍しくない、【犯罪者】というレッテルだった。

 キースが体の感覚を取り戻している間にも、時間は容赦なく進み続けている。部屋の電話があちこち鳴り響きはじめた。薄い膜が張ったような音だったのが、だんだんとその壁を突き破り、キースに鋭く刺さる。無機質なコールの嵐。キースは震える指先で施錠してあった引き出しを開けた。登記などの書類を一式、非常用の携帯電話。番号を知る者はごくわずかだ。もう五年は触っていない。それにラップトップコンピューターを鞄に詰めた。抱えるようにして窓に駆け寄る。斜陽が差し込むとともに、正面玄関に数人の人影があるのがわかった。

 キースはかけてあったロングコートをひったくり、非常口のほうへ足を向けた。テレビは消さず、できるだけ自分の気配を場に遺した。できるだけ足音は立てないように、しかしある速度をもって、階段を駆け下りる。普段つかっている携帯電話が執拗にキースを呼んだが、電源を切ることで拒否した。かわりに、先ほど引き出しからすくいあげた携帯を取り出し、電源を入れる。一週間に一度は様子を見ることにしていただけあって、電源も中の情報も生きている。登録してある番号は二件で、取引のある蛇頭、それに第一秘書だった男のものだけだ。だった、というのは、二ヶ月ほど前に解雇したからだ。

 自分を嗅ぎまわっているブンヤだかメディアだかがいる、ということは、半年ほど前から噂にきいていた。その手がキースの仕事に触れそうな範囲まできたとき、彼を切った。政治家に直接送金を行い、マネーロンダリングに手を貸していたのは、あの男だったからだ。空席には、営業も担当させていた第二秘書を抜擢した。

 しかしその第二秘書というのも数日前から具合が悪そうにしだし、ついには休暇の希望を出してきた。療養のため、という言葉に軽蔑を感じたのを覚えている。給料分の働きもできない人間など、必要ない。尻拭いのために働くことは苦痛だったが、預けた仕事に大穴が開くよりましだった。

 キースはできるだけガラス窓を避けるように歩いた。俯き、コートで口元を覆うふりをしながら、蛇頭へと電話を繋ぐ。この番号は把握しているはずだ。実際、ツーコールと待たず相手が出た。

「――厄介なこと、なってるようだね」

 独特な癖のある、中国なまりの英語が言った。ホアン、といったはずだが、本名は知らない。

「車を回してくれ。できればホテルも。パスポートと旅券も必要になる」
「車は、わかった。でも私も忙しいですね。ホテルはともかく、パスポートと旅券、すぐは無理よ」
「いつになる」
「車は、今から。一時間、待って。ユエグアン、いうカフェに行くよ。前に食事したところ。ホテルはそのときね。パスポートは明日の昼すぎ」
「ばかな。俺の写真はあるんだろ」
「私、忙しいといったよ。でも、マイヤーズさんにはお世話なってる。だから大急ぎします。それでも、昼すぎ」

 キースはいつの間にか足を止めていた。周囲がぶつかりそうになり、視線を投げかけてくる。慌てて足を進めた。

「わかった。カフェには向かう。パスポートと旅券もそれでいい」
「お金、生しかだめよ。カード、つけ、だめ」
「……いくらになる」
「そうね、急ぎだから。六本くらいは、かかるよ。ホテルと車も合わせると、多分十ちょっと」
 一本、というのは千ユーロのことをさす。つまり、一万ユーロちょっと、そこに手数料を加えて一万五千は支払う必要がある。

「わかった。頼む」

 キースは言って、まず指定されたのとは違うカフェに立ち寄った。エスプレッソを注文し、奥まった日陰の席を選ぶ。ラップトップを開き、自分のメインバンクを確認した。

「……どういうことだ」

 キースは思わず口に出していた。ボーイが、何か奇妙なものを見たような顔を一瞬して、離れていく。あまり関わるたちでなくてよかった。そうでなければ、画面を覗きこまれていたかもしれない。

 昨日まで、一千万ユーロを擁していた口座だ。それが、ゼロになっている。何度更新をしても、個人情報の項目を見ても、間違いはない。

 キース・マイヤーズのメインバンクは、空っぽだった。

 考えられる可能性を探った。脳の血の巡りが悪くなってしまったように、頭が冷たく感じる。考えなければならないことは膨大に存在するのに、それにまったく追いつけない。エスプレッソを喉へ放り込むと、少しだけましになった。キースはゼロをとらえることをやめ、違う口座にアクセスした。しかしどれを選んでも、ゼロ、に変わりはなかった。

 第二秘書を疑った。会社用の口座は奴のサブカードでも引き出せる状態になっている。だが問題は、キースのメインバンクだ。

 スキミングマシンを手に入れたのかもしれない、と思った。どのように手に入れたのだかわからないが、それを使って財布から情報を抜き取られていたなら話はかわってくる。口座そのものの情報さえ得てしまえば、あとは機械にひたすら暗証番号を打ち込ませ続ければよい。三日もあれば、すべての結果は試し尽くされるだろう。

 キースは顔を両手で覆った。こすりつける。画面もそのままに携帯電話を取り出した。第一秘書に電話をかける。そもそも、声は似ていたと感じたが、あの男の独白は本物だったのだろうか。そして本物であったとして、退職金に不足があったとでもいうのか。土産だけはたっぷりと持たせてやったはずだ。これまでのねぎらいのつもりもあったし、熱りが冷めた頃には呼び戻しても構わないと思っていた。それほど、有能な男だったのだ。少し臆病ではあったが、余分なことは口にせず、求めた以上の仕事をしないところが気に入っていた。

 だが、何度コールしても電話はつながらなかった。続けてメール画面から、第二秘書にかけ直す。こちらも何度かコールがあって、それでも繋がらない。口座の金を引き出せる可能性を持っているとすれば、この二人以外ありえない。そのどちらもが
今、消えている。着信拒否にもなっていないことに、混乱した。キースは、空になったカップに視線を落とした。

 ラップトップを収納していたケースにふと、手を重ねた。拳をその上に振り下ろす。たたきつけられたその衝撃で、中から何かが転がり落ちた。店の明かり受け僅かに反射したそれは、間違いなく銀行のカードだった。数ヶ月前、自宅に置きっぱなしにしたはずのそれを慌てて拾い上げる。口座番号を入力し、アクセスした。今度の数字は、ゼロではなかった。

 二万五千ユーロ。

 懐かしい数字だった。起業する際、命金として振り込んだ金だ。幸いにして、これを切り崩すような不況はやってきていなかった。だからこそ、このカードは自宅に置いてしまおうと決めたのだった。

 キースは僥倖ともいえるこの状況に感謝した。恐らく、先日名刺を整頓した際にでも転がって入ったのだろう。これまで気づかなかったのはなんとも言えない間抜けさであるが、幸運だった。

 キースはテーブルに二十ユーロを置き、できるだけ身なりを整えて店を出た。露骨な態度で、怪しまれてはならない。マスコミというのは、どこから狙っているかわからない。獲物として一度認識された以上、最大限想像される裏をかく必要がある。

 約束の時間まで、まだ猶予があった。キースは再び、別のATMに入った。先ほど拾い上げたカードを通し、全額を引き出す。二万五千は、あまりに心もとない厚みだった。キースの、小指の爪ほどもない。だがこの金でしか、彼の命はつながらない。地下銀行に向かおうにも、手数料を支払えなければ何もできないからだ。

 だが、足りない。一万五千少しを支払って手元に残るのは一万ユーロ弱。道中、着替えや食べ物、他にも思わぬ必要なものが出てくるかもしれない。更にいえば蛇頭が、どこまで自分に恩を売ろうとするかわからないのだ。無駄な金は支払いたくないが、後々自分の首を絞めるような恩を買うのもの御免だった。

 どうする。キースは尾行をまくため、デパートに入った。昔、マフィアにいた元警官からきいた方法だ。このデパートはトイレと職員通路が非常に近く、そこをつかって階段を降りてしまえば違う出口へ向かうことができる、と。監視カメラの死角になるルートがあり、未だに改善されていないのだという。キースはそのルートを思い出しながら選び、階段を降りた。

 実際、追ってきていたように感じた気配が消えた。サングラスを買う。眼鏡の上からかけられる、かなり大きなレンズのものだ。普段なら絶対選ばないものだが、背に腹は代えられない。キースは大通りに再び出ると、約束のカフェへと足を向けた。


 ユエグアン、というのは月光という意味らしい。紺色のガラス窓の向こうに、カウンター席が五つほど並んでいる。それをぼんやりととらえてすぐ、傍らから声がかけられた。停車した黒のワーゲンの後部座席に乗り込んだ。

「サングラス、似合いますね」
「よせよ」

 キースはようやく、かけていたサングラスをはずした。スペアの眼鏡のデザインは同じようなもので、顔の印象を変えてはくれない。かといって、眼鏡をとるわけにはいかなった。元々弱視と呼べるほどのひどい近眼で、眼鏡がなければ三十センチ先の文字すらまともに読めなかった。

 サングラスはそれゆえの苦肉の策だったが、顔をさされることはなかった。斜陽が眩しかったことが幸いし、道行く中でも目立たなかったのだ。

「お店、ちゃんと覚えてたね。嬉しいよ」
「俺を誰だと思ってる」
「ほほ、そうね」

 ホアンは言って、運転手へホテルへ向かうよう命じた。頬にペルーのような傷の走った、明らかな筋者だった。キースはまずチップとして、五百ユーロをホアンに渡した。

「こんなに。いいのですか」
「今回は突然のことで、迷惑をかけている。少しで申し訳ないが、お詫び料だと思ってくれ」
「ありがと。ホテルいくまでに、いかなければならないこと、したほうがいいこと、ありますか」
 ホアンの舌がなめらかになった。金だけで動く男ではないが、金もあればいいと思っている男だ。キースは少し考え、目を細めた。あまり弱みを見せたくはないが、今のところ彼以外に頼る伝手はない。一息ついて、口を開いた。

「国外に出たい、というお話はしたと思います。テレビであれだけ大騒ぎをされたら、しばらくは商売もしづらい」
「わかります」
 神妙にホアンは頷いた。空々しいが、似合う仕草だ。

「実は、少々資金が心もとなくてね。力を貸してくれるところを探してる」
「いくらくらい」
 ホアンの目が僅かに鋭さを帯びた。指を三本立てた。もう三百万ユーロあれば、一息はつける。それさえ得られれば逃げた先で、改めて稼げばよいのだ。

 だがホアンは眉をひそめ、首を横に振った。

「それは厳しいよ、マイヤーズさん。……マイヤーズさんのおともだち、たくさんお金借りてたね。かわりに返してあげてたでしょ」

 ホアンの言う通りだった。キースの献金していた政治家は元々、あるマフィアの幹部から紹介された縁だった。そのマフィアはホアンとの取引相手でもあるのだが、趣味で車に入れあげていてあまり評判はよくない。そのためなら部下の一人や二人、平気で担保に入れるような男だと愚痴っていた。

 かわりに返していた、とは、厳密にいうと語弊がある。幹部からはたしかに返済分の金は受け取っており、それをただ貸主のもとへ振り込んでいただけだ。これは貸主の意向で、表向きにはマフィアと繋がりを持ちたくない、というのが理由としてあったようだ。

 貸主には、一度だけ会ったことがある。キースの接待で、ナイトクラブへ連れていったのだ。ベリーダンサーたちにはさほど興味を持たなかったようだが、キースに対して悪感情は抱いていないように見えた。

「特別に教えることよ。マイヤーズさんのおともだち、今連絡とれないね。どこかにいったみたいよ」

 ホアンの目はどこか遠くを見ていた。借り主、つまりマフィアは死んだ、ということだ。幹部クラスであっても下手を打てば首を切る。企業もマフィアも、そこは変わらないということだろう。

 だがキースの関心は、そこになかった。

「……今月の支払いは、まだだぜ」

 キースは思わずぼやいていた。何度か頷き、ホアンが返す。

「だから私、急いだよ。マイヤーズさんには長生きしてほしいですから」

 なんということだ。この街の金貸しといえば、そのほとんどが前述の貸主――株式会社タウベンブルートの息がかかっている。すべてが手先、といってもいいかもしれない。キースはがくりとうなだれた。

 タウベンブルートは、こう呼ばれている。吸血鬼。すべての血を奪い取るように、金をむしりとっていくという評判は、まともな生活を送っている者にさえ届くほどだった。

 マフィアが死んだ以上、タウベンブルートは必ずキースから取り立てを画策するだろう。たとえ、それがどんな手段であっても。

「でも、これなら、なんとかなるかもしれない」

 ホアンは、指を二本立ててみせた。二百万ならあてがある、ということだ。

「どういうことなんだ」

「変わり者。皆笑ってるね」

 顔だけをどうにか上げたキースの、眠っていた記憶の彼方に一つの名が浮かんだ。

「フイユ・ブランシュだな」

「ほほ、ほほ。そうよ。きっと先生なら知ってると思ったね」

 ホアンは腹を揺すって笑った。細い目がまた、きゅっとすぼまった。これに口ひげでも足せば、史実の絵巻物に出てくる中国人のイメージにぐっと近づくだろう。

「行ってくれ」

 キースは腹に力を込めた。金融屋はどいつもこいつも、強かだ。だがそれは、ビジネスという大海に於いては誰もに当てはまる。
 運転手が大きく左へハンドルを切った。裏道を使うつもりらしかった。

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